移動局のカード

移動運用の際、カード交換目的で印刷屋に『こんな感じの絵でカードを作って下さい』と下書きのつもりで出した絵は、そのままカードにされてしまったカードです。
印刷やさんとの了解度が悪かったのです。
当時のハンディ(6m)も自作です。ミニチュア管3A5シングルの超再生式でした。
A電池はコロイド電池・B電池は積層乾電池ですから電池の消耗を減らすため、送信時間を短縮する工夫が大切でした。

 ハンディートランシーバーの製作道楽

QST誌に掲載されていたミニュア管3A5シングルによる超再生式送受信機の記事をデットコピーし移動式機器を作りました。今となっては楽しかった日々、製作記事は月刊誌ラジオ技術に掲載され原稿料を元に改良を加え更に原稿となり、勉学は置き去り道楽は益々深みえとはまって行ったのでした。

改良機で移動局の免許を得たいと関東電波管理局陸上課に日参しました。周波数の安定度など問題が多くバンドから逸脱出来ない構造にし、検査官も熱意に折れてか検査合格となりました。
同じコールで固定局と移動局の使い分けが始まり、晴れて移動運用が始まりました。

            サイクル19の異常伝播


1956年、6mはEスポによる国内外の交信機会もあって賑やかなバンドになりつつありました。
忘れもしない端午の節句の昼下がり、突然VK(オーストラリア)との交信が超ローカル局の様に出来たのです。
VHFでのオーバーシー可能から6mの人気はうなぎ登りとなり翌年の20世紀最大の異常伝播のさきがけだったのです。

6m開局1954年8月

ラジオ技術1955年11月号に掲載され実験仲間のJA1ET小泉氏の協力を得、開示できたのは幸せです。

混信による潰し合いに嫌気をさしてバンド巾の広い新天地50メガ帯を目指し、終段管832Aの送信機とクリスタルコンバーターを製作し運用が始まったのです。
さすが広いバンドそして運用している変わり者が少なく幾度CQを出せど応答の無い日日・・・
お互いにジャンクの水晶発振子による運用が普通ですから、自局の発信周波数と相手の周波数が違うのが当たり前の時代です。
その出会いは偶然から始まるのです。幸せな事は一度出会いがあれば相手の周波数を記録し毎夜のラウンドラグチューも難なくこなせる様になるのです。すでにこの頃7メガ帯はバンドとして解放され、固定局のみだったものが移動局も運用可能と次第に制限が解除されて行くのです。
               危うく親不孝

1956年8月のJARL第一回エマージェンシーコンテストでは御岳山で移動運用中、突然の雷雨に襲われあわや一命を失い新聞記事になる処だったのです。
幸いに命からがら下山出来、成績は第三位でした。賞状は仏壇に飾られる事無くホームページの話題に出来たのは幸運でした。