戦前ハムだったと言うおじさんに逢ったりハムを目指す悪友との交流には時間が要りませんでした。
許可されてないとなると覗いて見たくなるハムバンド、当時は米軍の統治下にありMPのお世話になるのは怖ろしいが・・・・雑誌で見たUHF(435M/c)の発信機を作っては壊し、豆ランプの点灯でニヤニヤ。
戦前のハムつまりOMのお声掛かりで『城南クラブ』なるハムクラブのミーティングに参加、アマチュア無線ライセンス取得に向けOMの指導を受けたのは九品仏(自由が丘の次)の社務所でした。
メンバーはOMを除けば同輩の学生ばかりでした。

1951年ハム解禁の翌年、国家試験の無線従事者免許取得のため中野高等無線学校での筆記試験の結果、法規で不合格。
試験問題例とその対策など親切な指導書の無い時代ですが電波法など関係法規の所在も知らず、ただがむしゃらなアタックには不合格の烙印を押され改めて日頃不勉強のツケが回ったのでした。
その頃、自動車運転免許も全く同じパターンで不合格となり改めて法規の勉強の大切さを痛感した時代でした。

次回の試験には晴れて合格し当時のGHQ(占領軍)承認を標した免許証が発給されたのです。免許証の有効期限は5年で更新のため法規を守りその免許証を返却したため残念ながらその証拠もないのです。
時に1953年4月25日付、第二級アマチュア無線技師として長いハムの道を歩み始めたのは二十歳の春でした。
・・・・・・・・・生涯続けられそうな趣味だと当時から感じての実行だったのです・・・・・

当時、開局のための情報などは地域クラブの集会で得たのです。戦前のハムJ2KS栗山OMの住む蒲田駅を中心とするクラブが発会され蒲田クラブと称しOM(exJA1KS)を会長に若者の集まりが出来ました。
毎月のミーティングは私の実家や新田神社の社務所を会場にしジャンクの交換など賑わいました。
私は結婚で船橋に転居し蒲田クラブのお世話が出来なくなりましたが今でも交流は続いています。

 私は1933年3月生まれの酉年、3人兄弟の長男として東京は恵比寿で生まれました。
それはそれは大事に育てられた『お坊ちゃま』だったそうです。
父親は貧しい生まれであったがその器用さから八木アンテナの発明者八木秀次博士の研究所で下働きをしていたと聞かされていた。貧しさから小学校も低学年で休学し、働きに出る状態であったらしい。それだけに私には学問と腕を付けたいと特別な配慮をし、特に『ものづくり』に関し両親揃ってあらゆる協力を惜しみませんでした。
その結果がハムと言う道楽に足を踏み込み、学業も疎かにし多くの担任教師に迷惑を掛けてしまったのです。

多趣味は多くのハムの専売特許とばかりに電気関係は当然、機械いじり・写真・模型製作は通り道で未だに揺れ動く先です。
敗戦の前年(1944)、小学6年生でしたが学童集団疎開で静岡県のお寺のお世話になっていた時でも、夜消燈を利用し写真の現像など趣味を続けたのです。都会では手に入らないフィルムや薬品は疎開地で休業状態の写真やさんに分けて貰えたのです。翌年春、中学生候補は学童疎開を解除され東京に戻された結果、あの東京大空襲を蒲田で体験させられたのでした。

不勉強の
タタリ

              鉄道模型から

両親に期待され運も良かったのでしょう悪事には手を染めず万世橋の交通博物館に入り浸り、気が付けば神田の露天商(神田駅から小川町界隈)を徘徊し米軍ジャンクに手を染めるハム青年候補生(15才)になっていたのです。

 賞状を受けた作品は息子のオモチャに見せたとたん・・・・・分解され金属の屑となりました。
私がやってきた道を歩み始めていました。文句なし!

蒲田クラブ

JA1QCのあしあと
戦前のハム
との出会い

両親の期待
に反して

幻の免許証

疎開先でも