私は1933年3月生まれの酉年、3人兄弟の長男として東京は恵比寿で生まれました。
それはそれは大事に育てられた『お坊ちゃま』だったそうです。
父親は貧しい生まれであったがその器用さから八木アンテナの発明者八木秀次博士の研究所で下働きをしていたと聞かされていた。貧しさから小学校も低学年で休学し、働きに出る状態であったらしい。それだけに私には学問と腕を付けたいと特別な配慮をし、特に『ものづくり』に関し両親揃ってあらゆる協力を惜しみませんでした。
その結果がハムと言う道楽に足を踏み込み、学業も疎かにし多くの担任教師に迷惑を掛けてしまったのです。
多趣味は多くのハムの専売特許とばかりに電気関係は当然、機械いじり・写真・模型製作は通り道で未だに揺れ動く先です。
敗戦の前年(1944)、小学6年生でしたが学童集団疎開で静岡県のお寺のお世話になっていた時でも、夜消燈を利用し写真の現像など趣味を続けたのです。都会では手に入らないフィルムや薬品は疎開地で休業状態の写真やさんに分けて貰えたのです。翌年春、中学生候補は学童疎開を解除され東京に戻された結果、あの東京大空襲を蒲田で体験させられたのでした。
不勉強の
タタリ
鉄道模型から
両親に期待され運も良かったのでしょう悪事には手を染めず万世橋の交通博物館に入り浸り、気が付けば神田の露天商(神田駅から小川町界隈)を徘徊し米軍ジャンクに手を染めるハム青年候補生(15才)になっていたのです。
賞状を受けた作品は息子のオモチャに見せたとたん・・・・・分解され金属の屑となりました。
私がやってきた道を歩み始めていました。文句なし!
蒲田クラブ
両親の期待
に反して
幻の免許証
疎開先でも