パンザマストの時代
写真は船橋市金杉町、県道8号沿いのホーム時代でパンザマストの頂上に立ち幕張メッセ方面に向かってシャッターを切ったものです。(1996年)
上部の筒は2.4G,下部は50MHzのエレメント、延長マストには1.2G・430Mそれぞれ二列を載せ、高さは20Mの威容でした。

                   電波の路を訪ねて

『一生続けられる道楽』が頭にあり土地を探す段階から電波の道を想像し、しかも雑音発生源となる高圧線の無い場所、アンテナを設置しても近所に迷惑の掛からぬ広さのなど、望みは高く予算は少なく・・・・・結果は過疎地!!!

                   雷の路の落とし穴

だが、ロケーションが良いと言う事は落雷の危険も増える事になるのです。
パンザマストであればその被害も無かろうと考えたのですが雷のエネルギーはすざましいもので、フィーダーを伝わりシャックから外部の東電トランスにまで損害をお裾分けしました。本人は不在で雷による不幸中の幸いはこれで二度目になります。 クワバラクワバラ(雷避けの呪文です)
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                 ATVやパケット通信

次々と新しい技術が現れます、何をやっても完成を見ずにまた新しい物に喰いつくのが悪い病。身近な中古機材を手に入れ改造し一応は楽しむものの更に研究し最先端を目指す事をしない怠け者なのです。
アマチュアテレビが始まった頃、8ミリビデオも楽しんでいたので簡単に始められたのですが相手の少なさと距離が伸びず簡単に飽きが来ました。
簡単に始まるものは終わりも簡単です!右の画像はその頃のものです。
パケット通信は自動運用が可能なため現在のe-mail の前座として楽しんだものです。

                                屋根馬からパンザマストに

新婚の家は船橋駅から6.5Km程入った分譲地の一軒家。電気は来ていても付近にも電話が無い不便な部落でした。
外部との連絡はアマチュア無線のみです。屋根馬でビームアンテナをあげ、かみさんが通勤の帰路の交信を傍受できる気遣いを想い出します。
50MHzA3での交信相手が少なく、帰宅通路の移動位置など一方的アナウンスで帰宅したものです。半年ほどで有線電話も設置され相手の無い電波は出さずに済むようになりましたっけ。
家族も増え手狭になりました。工場を船橋に移転する機会に合せ写真の場所を求めて転宅したのです。(1972年)
屋根馬にはステーが必要です。高台で風当たりが良い場所はステーが唸り現象を起こし家鳴りとなるのです。
念願のタワーの設置は地形の関係からパンザーマストとすることとしました。生憎第一次オイルショックのため15Mタイプのみで決めたことが後の苦労に繋がってしまったのです。
少しでも高く・・・・からローテタにガス管を延長しそこそこの高さを得たのです。しかし台風は見逃してくれません、肉厚のガス鋼管もへの字に曲げてくれたのでした。その後アルミ特殊合金の厚肉パイプを使い、撓んでも曲がらないマストへと進化しました。

                                バカと煙は高いところ

何が因果か私は高い処が大好きです、幸いに試験には度々落ちても地上に落下の経験はありません。アンテナタワーの建柱は業者に依頼しましたがアンテナの取り付けメンテなどはすべて自分で気の済むまで登り続けました。
長時間息子たちに手伝わせたのも不評だったのです。    バカは死ななきゃ直らないとか言いますね。